プレイエル社は、パぺのサポートのもとに発展しましたが、間もなく長男カミーユが加わり、跡を継いでいきます。カミーユは優れたピアニストでした。ピアニストのカルクブレンナーのサポートのもと、技術の研究を重ねてプレイエル社を一流のピアノメーカーとしての地位を確立させました。
そして、イグナーツプレイエルが亡くなった年に、ショパンがプレイエル社を訪れ、カミーユとの運命的な出会いがありました。ショパンが祖国ポーランドを離れ、ウィーンを経由して1832年のパリに来た時、彼を世に送り出したのは、カミーユでした。プレイエル社は、ショールームが併設されたサロンを設立しましたが、ショパンはそこで、1832年デビューを果しました。彼がパリで開催された、公式演奏会はすべてプレイエルサロンで行われています。彼は1839年製のプレイエルピアノを購入しています。
「疲れているとき、気分が優れないときはエラールのピアノを弾き、気分が良く、体力のあるときにはプレイエルのピアノを弾く」と弟子に語ったことは有名です。リストは「ショパンは銀色のように美しく、いくらかベールのかかった音の響きと非常に弾きやすいタッチの故にプレイエルを好んだ」と語っています。
ショパンの作品である「24の前奏曲作品28」「ノクターン作品37の1ト短調」ピアノソナタ第2番変ロ長調作品35」「幻想曲ヘ短調作品49」はプレイエル製のピアノで作曲されました。